まずこの拙稿をしたためるきっかけを説明しておく必要があると思われる。二、三年前
になると思うが、京都古典会の通常市で内裏の扁額を縮写した巻物や一枚物などを購入し
たのだが、その内の何点かに寛政四年や寛政五年の年号が墨書されていた。寛政年間と内
裏の扁額などから、集古十種を思い浮かべたが、調べていくうちに、藤貞幹(とうていか
ん)が編輯した「集古図」に行き着いたのである。
ところが筆者もその時に初めて知ることになるが、藤貞幹と佐々木竹苞楼(注①)は随
分と深い間柄であることが判明した。二代目の佐々木春行が当事者で、我々現代の古本屋
の世界にもつながるので、少し書かせていただくことにする。なお、集古図と集古十種の
関係も検討したいと思うが、紙数の都合でこの度は割愛する。
藤貞幹に関する研究文献はそれほど多くはなく、どちらかというと少ないほうである。
吉沢義則先生の「藤貞幹に就いて」(注②)はその嚆矢ともいえる発表である。 この論
文は、竹苞楼五代目春吉氏の時に、所蔵される資料等(注③)に直接あたり書かれたもの
である。このあとも本書を基本的に利用させていただく。
貞幹は享保十七年六月二十三日(1732)に京都で生まれ、寛政九年八月十九日(1797)
に没している。ここで藤貞幹について『朝日日本歴史人物事典』(ネット版)から引用し
て記す。
江戸中期の国学者。考古学の方面に活躍した。本姓、藤原。姓を藤井とするは誤伝。通
称、叔蔵。号は無仏斎、亀石堂など。京都仏光寺久遠院権律師玄煕の妾腹の子。11歳で得
度したが、18歳で還俗。和歌は日野資枝に、有職故事は高橋宗直に、書は持明院宗時に、
儒学は後藤芝山、柴野栗山に学び、かたわら高芙蓉、韓天寿と親しく篆刻の技にも長じて
いた。日本の古代史に関心が深く、古文書、金石文、器物、書画の調査に各地を歩いた。
裏松光世とも親しく、その『大内裏図考証』の著作に協力し、寛政内裏復旧再建にも力を
尽くした。水戸藩の修史事業(『大日本史』の編纂)にもかかわった。学風は清朝考証学の
影響を受けているが、史料の信憑性やその扱い方に問題があって、説得力に欠ける論も多
い。なかには意図的な偽証かとも考えられるものがあり、同時代の国学者たちからの強い
反発を招くことがあった。そのいい例が、天明元(1781)年に発表した『衝口発』で、素戔
嗚尊を新羅の主であるとしたり、天武天皇を呉の泰伯の末裔としたり、仲哀天皇と応神天
皇との間に血筋の断絶を想定したりするなど、大胆な説を立てた。本居宣長の『鉗狂人』
によって批判され、いわゆる唐心論争の発端となった。しかし、当時の学者が多く文献至
上主義であったのに対して実地の調査に基づく記述は、方法論のうえで後世の史学研究に
影響を与えた。ほかに『好古小録』『好古日録』などの著がある。<参考文献>吉沢義則
『国語説鈴』、川瀬一馬『藤原貞幹の業績』(白石良夫)
さて以上のような人物評ではあるが、書き残した著作類はかなりの数にのぼり(国書総
目録参照)、その多才さが看て取れよう。上記の『好古小録』と『好古日録』は鷦鷯惣四
郎ら五名による発行である。鷦鷯は竹苞楼二代目の佐々木春行(1764-1819)のことで、
古書は勿論、故実考証や能楽にも秀でた文化人で、上田秋成、伴蒿蹊、能楽の浅野栄足ら
と親しかったといわれている。また『近世畸人伝』などの出版はもとより、京観世の歴史
に関する随筆『素謡世々之蹟(そうたいよよのあと)』や有職故実に関する労作『礼儀類
典拾遺』などの著作もある(日本人名大辞典他)。春行は鷦鷯以外にも娑々岐などの字も
使っているが、『近江国輿地志略』巻五十七(注④)に佐々木、鷦鷯、沙々貴、娑々岐の
名が記されている。家祖嘉兵衛は近江出身といわれ、春重の弟泰雲和尚は蒲生郡とも関係
が深いので、これらの苗字を使用しても不思議ではない。
ところで竹苞楼に貞幹自筆の「秘蔵書目」があり、さまざまな分野の資料122部が記入
されている。また他の人物になる筆で、朱書きの書名が余白に12件記入されている。この
「秘蔵書目」以外にも貞幹の死後、春行が入手した遺品明細が「無仏斎遺伝書領目六」と
して竹苞楼に残っている。そこには前記書目との重複も含め295点(番号は295であるが実際
は297点余)の資料が掲載されている。少々長くなるが、今後手にする機会も無きにしも非
ずと思うので、吉沢先生の論文を参考に興味深いものを列記してみる。また注記は()内
に要略するか省くかした。目録の詳細は同論文を参照されたし。番号も論文に従う。
2 五岳真形図(土佐人へ譲)|3 纂図亙注孟子(船橋蔵書広橋殿へ進上)|7 師元年中行事
(先生自筆)|10 後醍醐天皇年中行事(先生自筆)|12 広橋家所伝年中行事(先生自筆)|
14 師遠年中行事(先生自筆)|17 元亨四年月儀(先生自筆)|18 蓬莱抄(先生自筆)|19
三條家訓点年中行事(先生自筆)|24 外記師緒年中行事(先生自筆)|25 三五要略(丸久
へ売)|27 琵琶秘曲御伝受記(先生自筆 丸久へ売)|28 教訓抄々出(先生自筆)|29 古東
面図(先生自写)|30 胡琴教録(先生自筆 丸久へ売)|33 物具装束抄・助無智秘抄・蛙抄
袍之部(先生自筆 合一冊)|35 年中諸公事装束要抄(先生自筆)|39 遠年紙譜(川合家へ
売)|40 鴨毛屏風文字摹本(風月へ売)|41 天文廿年大間書(先生自筆)|43 家伝(大職
官武智麿校本 先生自筆)|45 東国通鑑抄略(先生自筆)|47 永和大嘗会記(先生自筆)|
48 古本拾芥抄々出(先生自筆)|49 宸翰御製詩記(先生自筆)|53 禁腋秘抄(先生自筆)
|55 大外記師元朔旦冬至記(先生自筆)|58 琉球人姓名楽器図(先生自筆)|65 延喜儀
式(先生自筆)|66 新任弁官抄(風月へ売)|67 文房四賢伝(先生自筆 風月へ売)|69 金
銀幣図(先生編輯)|71 集古図続録(印章 先生自筆編輯)|72 公松古印譜(先生編輯并釈
文先生自筆)|74 好古雑記(先生編輯自筆)|77 寛政元年東遊日録(先生自筆)|78 土佐
家蔵古書画展観録(先生自筆)|80 楽儛雑談(先生自筆)|82 遐年要鈔(上巻 先生自筆)
|83 興福寺延年舞式(先生自筆)|85 最澄入唐明州牒(川合家へ売)|87 撮壤集所載年中
行事(先生自筆)|90 朝鮮礼単(川合家へ売)|91 御障子本年中行事(先生自筆)|93 豊
前国土中所得鏡及剣模本(先生自筆)|95 賢聖障子本文(先生自筆)|96 長元大嘗会御屏
風本文(先生自筆)|97 世尊寺行季二十ヶ條追加(先生自筆)|98 吉事次第(先生自筆)|
99 肥後国活水聞書(先生自筆)|101 缺本(先生自筆)|102 訪古遊記(先生自筆)|103
亀石堂雑記(先生自筆)|104 土佐家伝(先生自筆)|108 和漢故紙(風月へ進物に遣)|
109 仏刹印譜(先生編輯自筆)|110 雑筆要集(先生自筆)|113 東大寺勅封倉宝物目録
(先生自筆)|115 郵舎印譜(平村へ進物に遣)|117 水戸史館書目(先生筆)|118 官庫
書籍目録(先生筆)|121 和漢歴代銭幣打本(大館へ売)|125 寛正二年洛中町並大路小路
広狭事文書(風月へ売)|126 天正十九年雑記(風月へ売)|131 法体装束抄(先生手択本
山田家へ遣、代り本受取)|133 雑録(風月へ売)|134 唐十八学士真像(川合へ売)|138
競馬図(風月へ売)|141 東北院哥合(風月へ売)|145 儛図(風月へ売)|146 鴨毛屏風
画(風月へ売)|152 東大寺唐鞍図(風月へ売)|154 賢聖障子古彩本(風月へ売)|157
六々歌仙略伝(丸久へ売)|158 撰新古今集竟宴和歌懐紙摹本(風月へ売)|159 世尊寺家
伝(先生真筆)|164 東大寺三倉宝器図(風月へ売)|172 神泉苑所伝大内図(先生真筆)
|176 中殿御会図(先生手択 山田家へ遣代り受取)|177 延喜八田券文摹本(風月へ売)|
178 相撲図(風月へ売)|179 東海々路行程図(先生自筆)|180 古画像摹本(十五種 風
月へ売)|186 墨本類(四種 岸殿へ売)|187 印櫃(東寺所伝模造 風月へ売)|191 集古
図并附録(先生著述)|192 釈家官班記(勧修寺家へ売)|193 羯皷録(同家へ売)|194 長
歌短歌相違事(同家へ売)|195 禁秘御抄系図(同家へ売)|196 椿葉記(同家へ売)|197
残夜抄(同家へ売)|198 正和三年装束抄(先生手沢本 山田へ遣代本受取同家へ売)|199
諸鞍日記(同上 同家へ売)|200 富家語抜書(同上 右同家へ売)|201 伝宣艸(同家へ売)
|202 懐竹抄(同家へ売)|203 初例抄(同家へ売)|204 朗詠要集巻上(先生沢 山田家へ
遣代り本受取)|205 中原師古文書(勧修寺家へ売)|206 補注蒙求(柳原氏へ売)|207 学
庸章句(同家へ売)|208 論語素本(同家へ売)|209 華頂皮相(同家へ売)|210 基盛鷹
狩記(先生手沢 山田へ遣代本取同家へ売)|211 作庭記(同家へ売)|212 唐六典(同家へ
売)|213 爾雅(姫路川合家へ売)|214 年代之記(同家へ売)|215 金石打本(形浦山碑他
六種 同家へ売)|216 家礼正衡(山田家へ売)|217 和名抄(同家へ売)|218 新撰姓氏録
(同家へ売)|219 伴大納言絵詞(同家へ売代り古文書三通取)|220 明暦板都城図(同家へ
売)|221 点集(先生手沢 山田家へ遣代り本受取江戸高橋氏へ売)|222 諸先生諸説(土佐
山地氏へ売)|223 官職秘抄(伊谷氏へ売)|224 管見集用私記(同家へ売)|225 浅浮抄
(先生手沢 山田家へ遣代り受取木下氏へ売)|226 鶴岡八幡宮所伝太刀図(木下氏へ進物に遣
ス)|227 内裏式(先生手沢 橋本家へ遣代り受取江戸野口氏へ売)|228 南都二條家所伝
大内裏図(同上 同家へ売)|229 礼服図并武礼冠図(同家へ売)|230 常陸国史略(荻野
氏へ売)|231 珠紅譜(江戸森島氏へ売)|232 定家卿かな遣(広橋家へ売)|233 新猿楽
記(同家へ売)|234 保暦間記(同家へ売)|235 調味故実(先生手沢 山田家へ遣代り受取
同家へ売)|236 日本風土記(同家へ売)|237 僧一遍絵詞伝(同家へ売)|238 古注蒙求
(備前岸本氏へ売)|239 仏足石記摹本(同家へ売)|240 古文書(四通 同家へ売)|241
法隆寺宝物図抄出(同家へ売)|242 法曹至要抄(水戸桐原氏へ売)|243 名勝志図(猪苗
代氏へ売)|244 諸葛武侯像(浜島氏へ売)|245 源仲選白描木石(長洲木下源助殿へ売)|
246 江家次第(先生手沢本 柳原家へ遣代り受取耆善へ売)|247 大内抄(先生自筆)|248 京
兆図(先生自筆)|249 五重十操(先生自筆)|251 鳳管略注(先生自筆)|252 楽所家伝
(先生自筆)|253 声振要録(先生自筆)|254 楽譜雑録(先生自筆)|261 新修鷹経(山
田家本かへ)|262 印章私記(著述)|263 歴代外印鋳造私考(著述)|264 改正寛永銭
譜(著述草稿)|268 卜部兼文勘文(自筆)|269 卜部兼文勘申官史私記(自筆)|272 釈
奠彙纂(秋部草稿著述)|276 吉野記(先生自筆)|277 公私古印譜考証(著述自筆)|278
和訓私考(著述自筆)|278 舞御覧記(残缺自筆)|279 楽制通考抄出(自筆)|280 同稿
本(著述自筆)|284 内裏儀式疑義(著述自筆)|287 高山寺所伝僧覚融戯画抄出摹本并遊
高山寺手録(先生自筆)|288 僧法然画詞抄出(先生自筆)|291 三跡筆ノ緒摂伝(先生自
筆)|295 臂袋并石戦私考(先生真筆)(太字下線部注⑤)
以上藤貞幹自筆や編輯のもの、また売却されたものを選んだ。しかるべき文庫や図書館
に所蔵されるものは別として、未だに世間を漂っているものもあるだろう。
吉沢先生の論文に、佐々木春行から伊勢の蒔田田器(注⑥)に宛てた書簡のことが掲載
されているが、貞幹と春行の関係の知られる資料なので抜粋して記す。
「八月十九日無仏斎先生物故之事(略)八朔の夜外方宴席へ被相招、無事帰宅、翌二日
夜発吐瀉、己後発熱、三日より先づ左半分不随、中風症と相見へ、言語不通、扨々こまり
入申候(略)同日発狂之体にて何事も埒明き不申候(略)先生介抱人も無之、大難渋、漸
御老母御出にて(略)私共迄も交代いたし候(略)同十九日夜物故に候、翌廿日夜遺骸吉
田山東麓芝の墓と申処へ葬埋仕候(略)浜島志摩守殿橋本肥後守殿山田伊豆守殿高橋釆女
正殿此の四人へ万事引受被申候(略)蔵書遺物之類夫々右四軒并私方に留置、書物などに
而も右四軒之内に在之候、品重複に相成候ものは追々相しらへ払ものに相成候(略)当月
八日吉田山智福院にて社中一同集会、墓祭取行申候、饗膳は浜島君より調進にて至極見事
に出来申候、次第別状懸御目申候」の文のあとに、直庵写鷹絵絹地一幅は田中訥言の染筆
だが行方不明なので教えて欲しい旨のことや、売価を指定して、ご入用のものあれば申し
出て欲しいなどと記している。この書簡は「十月廿六日 銭屋惣四郎 蒔田亀六様」と
あって、貞幹没後二ヶ月余を経て出されたものである。吉沢先生は貧しい貞幹は自分の家
を持たず、左京近郊春日河原北や聖護院村、油小路二條上東側に住み、竹苞楼の高倉に
あった持家を借りることになり移ってのち、病を得て此処で終焉したものでは無かろうか
と、また春行が取りしきって世話をしたものでは無かろうかとも考えられると述べてい
る。田器宛の手紙には春行の苦労がはっきりと読み取れ、貧乏な貞幹のための葬儀代やあ
とあとのために、できるだけ早く売るべき物は売ろうとした様子が窺える。「誰々へ売」
とある場合、ほぼ寛政九年、貞幹没後に処分されたものとみなしてよいだろう。
「藤貞幹に就いて」には貞幹と親しい人物が掲載されている。
○昵近十七家
日野 烏丸 広橋 柳原 勧修寺 四條 橋本 三條西 冷泉下 六條 梅園 土御門
堀河 高倉 舟橋 山科 飛鳥井(以上久原文庫蔵貞幹自筆亀石堂雑記より)
この外に吉沢義則先生の管見に入った交遊氏名は、
日野資枝 同資矩 裏松固禅 外山(光実) 町尻(量聡) 紀宗直 高橋清章(浜島
志摩守) 辻豊前守 橋本経亮 高橋釆女正 近家宿祢 後藤芝山 柴野栗山 久米(順
利) 立原翠軒 那波魯堂 赤松滄洲 倉成龍渚 佐久間草偃 藤子礼 菊池某 佐藤某
原田越斎 高芙蓉 韓天寿 蒔田田器 山口某 木村蒹葭堂 猪苗代謙定 加賀美某
佐々木春行 神戸某 魯修である。
竹苞楼の当時の顧客や親しい人物および売却資料などを目録から拾うと次の表1のごと
くである。これらはいかなる人物であったのか、洗い出すことで竹苞楼の交遊関係も知
れ、少々興味深いので調査してみる。
①⑭土佐人・土佐山地氏:同一人物と考えてよいと思う。では土佐人で京都の学者と関係
を持つ人物は誰であるか。『近世人名録集成』(勉誠出版)には四名ほどの山地が記載さ
れているが土佐出身の者はなく該当しない。『国書総目録』(岩波書店、国文学研究資料
館日本古典籍総合目録データベース参照)の著者別索引には山地介寿(覚蔵)、山地焦窓
(正誠)、山地正忠が記載されているが、『近世人名録集成』にも登場する焦窓と正忠は
江戸の人で、時代も合わないので除外される。残るのは山地介寿である。
山地介寿(すけかず1768-1813)は土佐藩士で和学者。京都留守居役の介景の次男とし
て伏見に生れ、京都に過ごしたが寛政九年に土佐に帰郷する。それまでに宣長の門に入
り、また上田秋成、伴蒿蹊らと交わっている(注⑦)。この人物であろう。
②広橋家:公家。時代的に合致する人物に広橋伊光(1745-1823)か胤定(1770-1832)
があげられる。貞幹と春行の間柄から公家との親交も当然のことと思われる。
③丸久:元禄時代から続く宇治茶の製造元か。小山久次郎の創業で丸久小山園として現在
に至っている。敬称を使っていないので特別扱いの不要な人物と想像される。また購入し
ている図書から琴や三味線などに趣味があったと推定される。
しかし版元かもしれぬ、丸屋久四郎という版元もあるが、時代が下るので合致しない。
また丸九を丸久と書き違えたとすれば、京都に丸屋九兵衛(正本屋九兵衛、山本氏)がい
るが少し時代(明暦̶宝暦)が早いようである。
④⑫川合家・姫路川合家:同一かどうかは不詳。姫路川合家は姫路藩家老の家柄で、時代
的には川合(河合)道臣(1767-1841)が合致する。道臣は私立の学問所仁寿山黌を開い
たほどの文化人であった。京都の川合氏とすれば、龍公美の門人川合春川(儒学者)およ
び川合仲象(寛政頃の人、吉備出身で京都に住し狂文を能くした)があげられるが詳らか
ではない。
⑤風月:風月は当初『本朝古今新増書画便覧』に「時名朝臣西洞院宝暦十五年入道シテ風
月ト号フ又云々トモ和歌能ス」と記載される人物、すなわち西洞院時名(1730-1798)と
考えていたが、公家を呼び捨てにするとは思えない。その後、鈴木敏夫著『江戸の本屋
(上)』(中公新書)に「風月は寛永期創業の風月堂こと風月庄左衛門宗智で、寛永期に
は京都書肆じゅう最も多くの点数を出版している。大正期までつづいた名門」とあるのを
発見した。寛政期に風月善六がいるが庄左衛門との関係は不詳。しかし購入している品物
の内容から疑問も生じるが、書林の風月ならばかなりの好事家と想像される。
⑥平村:「進物に遣」とあり。この人物も敬称がないので気の置けない間柄と思われる。
『平安人物志』に塩瀬豊秋として記載される人物に想定される。平村豊秋ともいい塩瀬九
郎右衛門と称し、三条烏丸北に住み饅頭屋を業とした。先祖は宋人林浄因である。豊秋は
和歌や書に秀でたといわれる。生没年不詳。
⑦大館:大館(おおだち)は『国学人物志』他に記載される国学者で、歌人の大館高門
(1766-1840)と考えられる。尾張の生れで本居宣長の弟子、のち京都に出て一条家に仕
えた。木田姓で佐市とも名乗った。この人物にも敬称はないが、春行の後輩で親しい間柄
だったからか。兄に大館鶴鳴がいるが不詳。
⑧山田家:山田はもちろん貞幹の弟子といわれる山田以文(1762-1835)のことである。
以文は吉田神社の祢宜(吉田家の侍士とも)で、有職故実に通じ和歌も能くしたといわれ
る。春行も貞幹の弟子の以文には貞幹の手沢本などは差し上げ、代りに別の書籍などを
貰って売ったようである。
⑨岸殿:岸は絵師の岸駒(?-1839)のことと推測する。岸駒は京都を代表する絵師でも
あり、有栖川宮家の近習となり、のちに官位まで頂戴している。
⑩勧修寺家:貞幹とも昵懇の公家。「かじゅうじ」あるいは「かんじゅじ」と読む。二十
三代当主勧修寺経逸(1748-1805)が該当すると考えられる。
⑪㉕柳原氏・柳原家:柳原家は名家の格を持つ公家。時代的には柳原紀光(1746-1800)
か均光(1772-1812)のことと推定される。ただし大阪の書肆で、屋号河内屋、本名柳原
氏があるので迷うところである。『江家次第(十九冊)』(246番)は「柳原家へ遣」と
あるので、公家の柳原家のことであろう。この『江家次第』は承応二年版で、のちに銭屋
惣四郎が改めて出版した。
公家の柳原家の旧蔵本は、明治四十三年に岩瀬弥助が購入し、現在岩瀬文庫に所蔵され
ている。246番の『江家次第』に特定できるものに、寛政十三年の山田以文の識語や貞
幹、壷井義知らの言説書入れを持つものが文庫にある。なお「柳原氏」に売り払った書籍
は現在所有者が確認できず、こちらの方は公家でなく書肆柳原の可能性が大きい。
岩瀬文庫が出たので、五代目惣四郎氏に少し触れてみる。五代目春吉は四代目春明の次
男(長男は早世)で明治十一年生れ。なかなかの商売熱心とみえ、紺紙金泥の般若心経を
岩瀬弥助に売っている。手紙で「一、金五円(中略)右筆者未詳ナレドモ頗ル上代能書、
奥ニ参河国トアリ 何カ歴史的伝説アルモノナラント存候」と売り込んできたのを購入した
とある(注⑧)。これが「後奈良天皇宸翰般若心経」で現在重要文化財に指定されてい
る。筆者未詳とあるが優れた鑑識眼の持ち主といえよう。また昭和三年に不要な本が二千
二百冊ほど京都の佐々木書店へ売却された記録が残り(注⑧)、竹苞楼と思うが不詳。
⑬江戸高橋氏:寛政前後の江戸住まいの高橋某で、書画家や学者となるとそれほど多数は
存在しない。『江戸諸名家墓所一覧』からそれらしき人物を拾い上げると、高橋牛嶼(儒
学者、名廷園、また庄左衛門という。寛政十年七月二十三日没、八軒寺町玉宗寺に葬る)
と高橋東岡(天文学者、暦官。本名作左衛門、名至時、字子春など。文化元年正月五日
没、下谷の原空寺に葬る)がいるが、何の証左もないので不詳としておく。
しかしながら屋代弘賢の弟子といわれる狩谷棭斎(1775-1835)は、池之端の本屋に生
れ、寛政十一年二十五歳で狩谷家を継ぐまでは高橋姓であった。有職故実や金石学などに
優れ蔵書家でもあった高橋真末(まさやす)でよい。「狩谷棭斎年譜」中の寛政二年春に
「真末上方へ旅行、竹苞楼銭屋総(ママ)四郎方で永仁五年呉三叟鈔古文孝経を見、山田
以文方で春秋経伝集解巻第十を見る」、また寛政九年三月中には「真末、京都において弘
仁鈔本文館詞林残巻二巻を入手する」とあり(注⑨)、以文や春行との関係が知られる。
⑮伊谷氏:京都の人と思うが全く不明。有職故実家か。
⑯木下氏:木下氏も京都の人であろう。『平安人物志』にそれらしき木下は三名登場す
る。静(漢学者。字は正直、通称弥一兵衛、観水又は愛山堂と号した。柴野栗山の門に入
り修学の後、室町出水南に塾を開いて門弟の養成につとめた。文化十二年六十三歳で没
す。洛東永観堂に墓があリ「木下信好先生墓」と諡せられている)。辰(儒家。号桃里、
通称弥三郎。文政五年版から慶応三年版まで記載あり。生没年不詳)。応受(画家。円山
応挙の次男で母方の木下の養子となる。文化十二年わずか三十九歳で鬼籍に入る。文化十
年版に載る)。この三名であるが、辰は慶応版まで載っているので、おそらく寛政頃は幼
少と思われるので除外する。残るは静と応受であるが、鶴岡八幡宮所伝太刀図(226番)
を進物としたのは、絵画の参考資料として、おそらく応挙の次男で応瑞の弟である応受に
渡されたと理解したい。ただ柴野栗山門の静も捨て難いものがある。
⑰橋本家:橋本家の出現は内裏式(227番)のみであるが、公家の橋本と橋本経亮の二名
が知られている。『国書総目録』に掲載される内裏式のうち、貞幹に関係深いと思われる
ものは、宮書(天明八年写三巻一冊)と大東急記念文庫(藤原貞幹校、江戸末期写三巻一
冊)の蔵本である。
吉沢先生は遺品現存目録を作成されており、その中で内裏式は久原文庫(内裏式 一冊
天明八年写)と三村清三郎氏(内裏式 自筆)所蔵の二点が存在している(注⑩)。吉沢先
生の論文は大正十一年に発表されているが、その時にはすでにこの二名の所蔵になってい
たのである。「無仏斎遺伝書領目六」には「内裏式 先生手沢』(227番)の一点のみ記載
され、もう一点については不明である。ただ「秘蔵書目」中に「弘仁内裏式 以勧修寺家
古本及壬生官務蔵本一古本校正」(13番)と記される内裏式がある。勧修寺家と壬生官務
家に所蔵されていた二本の内裏式を参照して手元にある内裏式を校正したようであるが、
勧修寺家本は『国書総目録』に記載される。壬生官務家のほうは不詳。現在壬生家の文書
類は宮内庁書陵部に蔵されている。
宮書すなわち宮内庁書陵部の蔵書は、現在図書寮文庫としてネットで公開している。書
陵部に天明八年の写本は二本存在し、一本は「内裏式(3巻)天明8年写 1 松岡本」と
記載されており、藤貞幹所有のものと異なる。もう一本は「天明8年写・寛政4年校、藤貞
幹、寛政9年校、橋本経亮」とあるので、これこそ橋本経亮に進呈したものと断定でき
る。なお松岡は有職故実家の松岡辰方(まつおかときかた1764-1840)のことで、蔵書は
書陵部に松岡本として保管されている。
では吉沢先生調査の同じ天明八年写と伝わる久原文庫、現大東急記念文庫所蔵の内裏式
はどのように解釈すればよいか。前述したように『国書総目録』には「藤原貞幹校、江戸
末期写三巻一冊」とあって書写の年代が書かれていない。吉沢先生の写し間違いですめば
話が早いが、無刊記の写本の年号を書いてしまうようには思えないのである。記念文庫本
はもちろん三村本も実見しないので、この問題の解決は後日に譲ることにする。
三村所有の貞幹自筆本は何時何処から入ったのか不明である。「秘蔵書目」「無仏堂遺
伝書領目六」にも記載がない。貞幹が写した内裏式は早い時期に貞幹の手元を離れたと想
像できる。今も三村家の所蔵になるのであろうか。
⑱江戸野口氏:『金銀銭図』や『度量考余』の著書がある野口直方か。詳細は不明。
⑲荻野氏:京都の人と思うが不詳。ただ同時代の荻野では金沢出身の医者荻野元凱と近江
の津野神社神主で山田以文、平田篤胤に学んだ荻野光陶がいる。『常陸国史略』は『常陸
国志略』か。
⑳江戸森島氏:江戸の森島で時代も合う著名人といえば森島中良か。「珠紅譜」の内容が
まったく判らないが、染料となり薬効もある紅に関する本であれば、中良が購入しても不
思議ではない。中良は宝暦頃の生れで、文化七年十二月四日(1810年12月29日)没。医
者にして戯作者、蘭学者であった。奥外科医桂川家三代目桂川甫三の次男で、寛政頃まで
家祖桂川甫筑の元姓森島(森嶋)を名乗ったとある。
㉑備前岸本氏:岡山藩士で雅楽家の岸本家か。ならば岸本芳景(?-1830)が該当する。
㉒水戸桐原氏:水戸彰考館に関係する人物か。桐原義順(「装束裂記」旧彰考)、桐原義
和(「大饗御遊日之装束色目」文政十一年写、東博)、桐原義用(「阿都麻誉会比」彰
考)があげられるが、おそらくこの中の人物と思われる。
㉓猪苗代氏:猪苗代謙定のこと。連歌師の家柄で代々法橋を名乗る。謙定は『平安人物
志』には謙庭と記載されている。初名は謙貞とのこと、文化十四年没。
㉔浜島氏:貞幹とも親しい浜島志摩守(高橋清章)であろう。志摩守はもう一人高橋清平
がいるが息子か。高橋家(浜島と同一)は代々内膳司を務めた家柄である。『平安人物
志』では和学に分類されている。
㉕長洲木下源助殿:『増補近世防長人名辞典』(吉田祥朔、平成14年、マツノ書店)に未
掲載。豊臣の血を引く人物で藩士か。詳細不明。
㉗耆善:この人物にも敬称がないので、春行の友人に等しい人物であろう。版元と想像し
たが、耆と似た漢字を使用する出版社に、寺町四条上るに住し東壁堂の屋号を持つ蓍屋善
助(めとぎやぜんすけ)なる人物が存在する。時代も寛政頃で、おそらくこの出版人と思
われる。略して耆善と呼んだようであるが草冠を書き落としたか。
以上、取り違いの可能性もあるが、一応調査の結果を記載した。
このように竹苞楼に関係する人物は多岐に亘り、 春行自身を学者といってもよいほどの
方なので、付合いの範囲も大きかったのであろう。なお遠方の人物にも資料を売っている
が、現代のように流通や通信が整わない時代ゆえ、ほとんどが上洛した際に買い求め、ま
た書肆が書籍等を携えて江戸に下向し商談をしたこともあったようである。
藤貞幹と竹苞楼の関係を示す格好の資料がある。この文を書く理由になるものである。
それは国立国会図書館所蔵の「集古図」である。この国会図書館本の第十巻扁額宮殿の巻
末の跋文(挿図参照)に「集古圖十巻左京藤原貞幹所揖也貞幹得病不卒業而没後有故帰洛
陽寺街書肆銭屋宗四郎惣四郎憐貞幹無嗣有人求之者為摸冩與之納其價於貞幹之精舎以助追
福此圖則就銭屋求之者實天保八年丁酉八月六日也」と書かれている。「價」の字を書き落
としたのか行間に小さく書いている。
要約すると「集古図十巻は左京の藤原貞幹の所輯になるものである。貞幹は病気に罹り
治癒することなく死去し、没後故ある洛陽に帰ったが、後継者がおらず、寺町の書肆佐々
木竹苞楼が憐れんで模本を作成し欲しい人に与えた。それによって得たお金で貞幹の供養
をおこなった。則ち銭屋についてこの図を求めたのは実に天保八年八月六日のことであ
る」といったような内容であろうか。ここになぜ宗四郎と惣四郎の二つの名前が書かれて
いるのであろう。『増訂慶長以来書賣集覧』の銭屋の項に「三代目は春蔭(中略)文政元
年佐々木に入家す」とあり、二代目の子息春風が急逝したため後継者を求めたようである
(注⑪)。また銭屋宗四郎の名前で『色のちぐさ』(田中訥言著、文政元年夏)が刊行さ
れているので、おそらく家督と惣四郎の通称を三代目に譲り、自らは「宗四郎」と名乗っ
たと考えられる(注⑫)。さすればこの「集古図」の跋文は二代目と三代目のことと理解
されよう。貞幹の追福は二人が健在で、なお山田以文(天保六年没)が参加できた時、
おそらく二十三回忌つまり文政二年と推定できる。それまでに何点か模本を作成し売り払
っていたのであろう。また吉沢先生は「藤貞幹に就いて」で、竹苞楼に伝わる一文を紹介
しているが、享和三年八月十五日に門人旧故が集まり祭祀を行ったと書いている。また文
化十三年の貞幹命日に墓碑改造の告文(竹苞楼蔵)が残り、碑石の建替えのことが判明し
ている。享和三年は貞幹七回忌にあたるが、それ以外にも弟子や友人達は故人を偲ぶため、
忌日に集まっていたようである。春行は文政二年八月二十一日に没しているので、貞幹の
命日を追うように亡くなったようである。貞幹死後二十二年を経て、二人はまた黄泉の国
で再会することとなる。
この跋文を松尾氏は、天保八年に模本を作り売却してその供養費にあてた(注⑬)とし
ているが、「此圖則就銭屋求之者實天保八年丁酉八月六日也」をどのように解釈するかで
ある。天保八年となると貞幹没後四十年となり、間が空きすぎまた特別な回忌でもないの
で少し疑問が生じる。すでに春行も死去しており、二人の名前を書く必要はないと思われ
る。やはり何点か写本を作成し売り払って供養もしたが、最終的にこの写本を手放したの
が天保八年のことであると理解したほうが自然なように思う。天保十二年の写本は二点
残っているが、この天保八年は記載されず、国会図書館も刊行年を記していないので、詳
細は判らないのであろう。跋文は筆写人とも筆蹟が異なるようなので、別の人物の書にな
るものと思える。紙質も同一で別紙を貼付した形跡もないので、後日空白に書き込んだと
考えるほうが妥当である。
跋文の筆者を推定してみよう。貞幹の没後、集古図を模写させ販売に協力した人物とい
えば、まず後を引き受けた四名があげられる。しかし没年のはっきりしない浜島志摩守
(高橋清章)を除き、山田以文、橋本経亮(文化二年没)、高橋宗孝(文化十二年没)は
すでに世を去っているので、この跋文を書くことは不可能である。残された浜島志摩守で
あるが、文政十三年版の『平安人物志』に載るが、天保九年版には子息と思える高橋清平
が記載されているので、すでに天保九年には死去していたと考えられる。当然竹苞楼の事
情にも詳しく、三代目とも親交のあった人物であろうが、そうとすれば彼らの子息かも知
れぬ。しかしながら署名や印がないので、学者や官職のある者ではなさそうである。購入
者か竹苞楼三代目自身の筆になるものかも知れないが、もう少し三代目の事績などを調べ
る必要があるようである。
では「無仏斎遺伝書領目六」に記載される「集古図」は現在どこが所蔵しているのか。
「集古図」の記載は「集古図続録 印章 先生自筆編輯 一冊」(71番)(注⑭)と「集古図并
附録 ○印之外未校也 先生著述 廿七巻」(191番)の二点が知られ、191番の内容は以下のよ
うである。()の巻数は筆者。
○第一天文 ○第二地理 已上二巻合巻(1巻) ○第三度量(2巻) ○第四上銅印(3巻)
○第四下銭幣脱(0) ○第五上服飾上(4巻) ○第五下同下(5巻) ○第六銅器(6巻)
○第七上錦綾染采(7巻) ○第七下褥席(8巻) ○第八輿輦(9巻) ○第九刀剣(10
巻) ○第十上上(11巻) ○第十下同上(12巻) ○第十一玉器(13巻) ○第十二石
器(14巻) ○第十三瓦器(15巻) ○第十四磁器并附録(16巻) ○第十五食器(17巻)
○第十六木器(18巻) ○第十七鉄器(19巻) ○第十八文房具(20巻) ○第十九粉本
未脱稿(21巻) 第廿動物(22巻) 第廿一碑銘(23巻) ○第廿二葬具(24巻)
附録 ○宮殿扁額(25巻) ○諸門扁額(26巻) ○扁額附録(27巻)(注②参照)
目録は二十八巻であるが、第四下の銭幣が脱落しているので、実際は二十七巻というこ
とである。また第十九の粉本が未脱稿とあり、この粉本巻に糕餅部(こうへいぶ、糕はこ
なもち)を付けて一巻とするようにと京都芸大本(下記参照)の目録に示されている。な
お第十の品目が記載されていないが矛の上下である。
松尾氏は大部の巻子本の「集古図」を所有している京都芸大、内閣文庫、国立国会図書
館、岩瀬文庫、早稲田大学、府立総合資料館、刈谷図書館村上文庫の七種を採り上げて解
説している。結構な文章量になるので、極力省略させていただく。
◯京都芸大本は35軸の巻子本で、「左京藤氏図書記」「貞幹」「左京藤原貞幹蔵書」
「無仏斎」「左京藤貞幹校正秘本」等の印と貞幹の落款が散見できる貞幹旧蔵本で草稿本
と呼ぶべきものであると松尾氏は記している。また画家竹内雅隆の補写や未整理の写生巻
があったりして繁雑であるが、前身の京都美術学校に明治二十五・二十六年頃に入ったら
しいと述べている。
◯国立公文書館内閣文庫は28軸の巻子本で、「盈進堂」「浅草文庫」「敬俊之印」の蔵
書印がある。松尾氏は、これは貞幹校正に従った浄写本と見てよいと述べている。また紙
継も整っており今回閲覧したもののなかではよく整理されたものとしている。
◯国立国会図書館本は貞幹自筆ではない26巻10軸の浄写本である。これが先に述べた
竹苞楼に関係深い写本で、巻子に仕立てる際に順番を無視した内容である。この国会図書
館本には巻首に「帝国図書館蔵」の角印と「明治三十一、三、二六、購求」の丸印が押さ
れており、購入時期の判明する資料である。この「集古図」は誰かの手を経て明治三十一
年に帝国図書館に収まったのであるが詳細は不明である。
◯西尾市立図書館岩瀬文庫は32軸の巻子本。こちらは巻数は多いがほぼ春行所蔵の「集
古図」に順番や内容が合致している。また31巻末に元奥書「明和五年戊子夏日模/天明二
年壬寅四月一校」とあるので、多少の異同や後補があるが重要な写本と思われる。
◯早稲田大学本は25巻28軸の巻子本。屋代弘賢の箱書(文化十四年)があり、「岸本
家蔵書」印から岸本由豆流旧蔵といわれる写本。由豆流(1789-1846)は伊勢出身の国学
者で蔵書家としても著名。貞幹と弘賢、また弘賢と岸本の関係を考えればかなり筋のよい
ものであると松尾氏は述べている。貞幹の交遊名簿で吉沢先生は弘賢を落としているが、
弘賢の紀行文『道の華』(寛政四年成立)に「孝経一巻。これハ弘安年中にかきたる本。
藤貞幹が持るをかりてうつしぬ」とあり、また弘賢の日記に「藤叔蔵書状到来」と記載さ
れているのでその親密度も理解できよう。
◯京都府立総合資料館本は23巻26軸の巻子本。直接草稿本に倣ったものとは思われな
いので伝写の経路が気になる写本であると松尾氏は書いている。『国書総目録』では京都
府(自筆 二六軸)と記載されるが、自筆ではないようである。
◯刈谷市立図書館村上文庫本は25巻27軸の巻子本。現状は脱落錯簡がかなり見受けら
れる。村上文庫は村上忠順(1812-1884)の蔵書である。また本居宣長門に入った内田宣
経の蔵書の可能性があるとする。
◯東京都立中央図書館加賀文庫本は30巻本である。これは冊子本の写本に多く、巻子本
は未見である。書写原本に質のばらつきが見られ、書写原本そのものの異同が問われる。
ただ寛政九年の年紀を持つ資料を収録し、貞幹死後その周辺の何者かが再編集したもので
はなかったかと推測する。貞幹の旧蔵品を管理した山田以文や佐々木春行らをはじめとす
る貞幹の知友よりいなかったはずであると述べている。
「集古図」は人気があったようで、表2のように『国書総目録』では二十九件の所蔵家
が掲載されている。公表しない機関があり、また個人等に秘蔵されているかも知れないの
で、もっと多くなると考えられる。貞幹存命中から幕末にいたるまで写本が作成されてい
るが、部分的な写本もあり、また散逸の可能性も高いと思われる。なおお茶の水図書館成
簣堂文庫は平成二十五年に改称されて「石川武美記念図書館成簣堂文庫」となっている。
筆者には主要な集古図さえ実見できず、画像を公開している所蔵家(国立国会図書館、
府立総合資料館)や限られた文献のみで考察するので、至らぬ点はお許し願いたい。
松尾氏はこれらの「集古図」を諸本の構成という表にしている。191番の集古図とほぼ
同じ構成を持つ写本は、内閣文庫本、岩瀬文庫本、早稲田大学本、村上文庫本である。京
都芸大本は貞幹の蔵印などがあって、やはり草稿本とよべるものと考えられるが、春行所
蔵のほぼ完成形と思える貞幹著述本(自筆とされず著述となっている)であるならば、補
写や未整理の写生巻などを付けることはしないだろう。また芸大本は巻次も少し上記四本
と異なるので、当然これらより早い時期に作成されたものと考えられる。191番の決め手
となるのは、第一天文と第二地理が合巻にされ一巻であること、当然のことながら第四巻
下が欠巻で、第十九巻の粉本が未脱稿であるが二点収録(春牛図、追儺図)されているよ
うなので、巻次として数えられているかである。天文と地理が一巻に纏められているのは
芸大本と内閣文庫本のみである。国会図書館本も一巻にしてあるが、まったく構成や巻数
が合わない。その他は天文と地理を合巻にせず、別々の巻次を与えている。また第十九の
粉本巻を持つのは芸大、内閣、岩瀬の三本である。 松尾氏の表から判断すると、多少の
誤差はあるようだが、国立公文書館内閣文庫本が「無仏斎遺伝書領目六」の集古図に合致
するようである。
内閣文庫本はいくつかの蔵書印があるが、どのような経緯で収まったかは不詳である。
紅葉山文庫や昌平坂学問所など旧幕府文庫の蔵書を中心としているので、それらと関係す
る学者が入手したものであろう。
貞幹所持の京都芸大本を原本とすれば、貞幹死去の時にすでにいくつかの写本が作成さ
れていたことになる。原本を元にして浄写本を作成したのであろう。最初に作成されたと
思える内閣文庫本に続いて、おそらく内閣文庫本を基本に早稲田大学本、岩瀬文庫本、村
上文庫本、総合資料館本、国会図書館本、冊子本であるが加賀文庫本やその他巻子や冊子
の写本が多数作成され、分蔵散逸したと考えられる。冊子本では書写年の記載のある大東
急記念文庫本も貴重な資料であろう。天保十二年や江戸末期の写本も残存しているが詳細
は不明である。なお京都芸大本は貞幹の弟子の山田以文が所持していたのではと想像され
るが、「遺書、著作原稿、遺品の大半は、弟子山田以文が保管していたが、明治時代に山
田家を出て、静嘉堂文庫、久原文庫(現大東急記念文庫)に入った」とされる(注⑮)。
芸大本をはじめそれぞれの入手経路を解明したいものである。
長々と駄文を連ねたが、もっと多くの文献にあたる必要性を痛感している。謎を解く楽
しさはあるが、やはり想像の世界を越えるにはなかなか骨が折れそうである。もう一度
じっくりと腰を据えてみる。今回はこれでお許し願いたい。またこれを一古書肆の喧伝と
捉えられると、はなはだ筆者の意図とかけ離れるのである。偉大なる先達を顕彰し、我々
古本屋の存在意義を問う一助となれば嬉しいのであるが。
(注)
①『増訂慶長以来書賣集覧』(昭和45年、井上和雄編、坂本宗子増訂、高尾書店)参照。
佐々木竹苞楼の初代春重は銭屋儀兵衛で修行ののち、寛延4年(1751)に書林仲間に入ったとあ
るので、竹苞楼の創業は寛延4年とされる。その後、春行、春蔭、春明、春吉、春隆と続き現在の
七代目惣四郎(英夫)氏に至る。
②『藝文』所収、吉沢義則著「藤貞幹に就いて」(大正11年8月~12月、第13年8号~12号、京都
文学会)参照。
当論文は『国語説鈴』(昭和6年、立命館出版部)に再録されるが、誤記誤字などがかなり散見で
きる。重大な誤り箇所を指摘すれば、『国語説鈴』140頁188古奇玩 「紅夷十九 珠蜆二顆」は
「紅夷珠十九 蜆珠二顆」に、142頁191集古図并附録「◯第廿動物 ◯第廿一碑銘」は◯を取り
「第廿動物 第廿一碑銘」にせねば注記の「◯印之外未校也」が意味をなさない。また191の第
十上下に品目が欠けている (両書共) が原本を見ていないので不詳。さらに145頁230常陸国史
略「萩野氏へ売」は「荻野」である。ただし『藝文』所収の「藤貞幹に就いて」自体にも誤記誤
植の類いがあるので注意が必要である。このように誤りは多々生ずるので、可能な限りもと本に
あたり、さらに原本を参照できればこれに越したことはないが、これとて万全とはいえない。
③『若竹集』(水田紀久編、1975年、佐々木竹苞楼)に「藤貞幹の蔵書は一括して竹苞楼に残され
ておりましたが、春吉の代に京大の吉沢義則先生の御世話で久原文庫に納まり」とあり。
④『大日本地誌大系』「近江国輿地志略 下」(大正4年、寒川辰清編輯、同刊行会)巻五十七「蒲
生郡第四」の佐々木神社の項に「所載沙々貴神社是也(中略) 鷦鷯此云娑々岐、及是與沙々貴通
用與佐々木同訓也(延喜式)」とあり。ただし神社と佐々木竹苞楼は無関係という。
⑤誤記誤植などあり。162・174・278は重複の番号を打ち153を753、237を227とする。また3亙
→互、72松→私、205古→右、209頂→陽か、219売→遣か、131・176択→沢の誤記あり。
⑥蒔田田器は伊勢の人で書家。『古今墨蹟鑑定便覧 画家書家医家之部』に「蒔田暢斎 名ハ器
字ハ必器通称亀六伊勢ノ人書(昼の横一の無い字使用)ヲ能シテ時ニ名アリ」と記載される人物
である。没年は「思文閣美術人名辞典」に享和元年(1801)64歳とあり。
⑦『立教大学日本文学』第105号所収、高松亮太著「山地介寿研究序説」(2010年)参照。
介寿の帰郷時期については、寛政 9年と 10年とに意見が分かれるが、高松氏は寛政9年としてい
る。上田秋成著『歌聖伝』を介寿が借用して写したもの(寛政丁巳秋閏七月念八日)が関西大学
に残り、さらに中之島図書館に、介寿から借用して貢仲明が写したもの(寛政丁巳冬十月十日)
が存在するので、介寿もこの時期まだ京都にいたと考えられる。
⑧「創立100周年記念特別展 岩瀬文庫の100点」(平成20年、西尾市岩瀬文庫)参照。
明治40年頃とすれば、当時の5円は今の15万円前後とされる。少し安い売り物であったか。また
文庫の図書売却のことは、年譜の昭和3年10月18日に記載される。
⑨『日本書誌学大系92』「狩谷棭斎年譜 上下」(平成16・18年、梅谷文夫著、青裳堂書店)及び
『人物叢書』「狩谷棭斎」(平成6年、梅谷文夫著、吉川弘文館)参照。
この永仁五年の「古文孝経」は現在宮内庁書陵部に蔵されている。図書寮文庫では「壬生本」と
記載しているので、壬生官務家小槻氏旧蔵品である。竹苞楼が預かって棭斎に閲覧させたと思え
る。この写本は藤貞幹と無関係のもので、貞幹所持のものは弘安二年の書写になり、貞幹珍蔵の
一本である。これは貞幹死後春行が管理した。この 「弘安本古文孝経」は 福山藩主 阿部正精
(1775-1826)旧蔵といわれ(平成23年度筑波大学附属図書館特別展図録参照)、文政6年に模
刻刊行されている。いつどのようにして竹苞楼から阿部家に渡ったのであろうか。原本は所在不
明とのことである。「春秋経伝集解巻十」は現国宝の東洋文庫岩崎文庫本と思われるが不詳。
「文館詞林」については、貞幹自筆「秘蔵書目」の5文館詞林跋尾と「遺伝書領目六」170文館詞
林摹本があるので二巻存在していたかも知れない。ただ寛政9年の3月中に購入したとなると時期
的な問題が生じる。また5は跋尾のみであり、170にしてもただ摹本とあるだけで弘仁鈔本などの
注記はなく、それほど重要視されていなかったようである。これらから棭斎取得の文館詞林は別
物と考えられる。5の跋尾は「遺伝書領目六」に記載されないので、貞幹生存中に処分されたもの
と思われる。棭斎は大和栄山寺旧蔵と伝わる668巻と阿部隆一著「文館詞林考」でいう664巻前半
部の文館詞林を購入したのではなかろうか。これらを取り扱ったのも竹苞楼と思われるが、入手
経路など不明である。この「文館詞林」668巻は屋代弘賢が棭斎より譲り受けたもので、こちらも
現在宮内庁書陵部の所蔵である。『森銑三著作集 第七巻 人物篇七』(中央公論社)「屋代弘賢」
の項で、帝国図書館蔵『古藝餘香』に「文館詞林」の記述があり「右文館詞林巻六百六十八、同
好高橋真末今春遊京師、広購古書得也(中略)寛政九年十月廿三日、源弘賢識」とあって、貴重
な珍本とみえて吉田篁墩、市河寛斎、松平定信、市橋下総守長昭が拝観し識語を書いている。ま
た帝国図書館は現国立国会図書館であるが、国会図書館には『古藝餘香』が見えず、大阪府立中
之島図書館蔵のものを参照した。『古芸餘香』は明治16年に内閣書記官長の田中光顕が編纂した
もので、その7(巻5)の古写本の項に「文館詞林」が載っている。文館詞林については先の阿部
隆一著「文館詞林考」と尾崎康著「文館詞林目録注」(昭和44年、影弘仁本文館詞林解題抽印、
古典研究会叢書)に詳しい。
また文政2年5月25日付で竹苞楼に宛てた本代など60両を送金した旨の手紙のことが記されている
ので、結構な取引があったものと見える。
『人物叢書』中にも竹苞楼二代目三代目の春行、春蔭の記載が随所に見られる。
⑩久原文庫は事業家・産業家として知られ、後に政友会総裁となった久原房之助の文庫です。久原
の資本により、鉱物学者・書誌学者で あった和田維四郎が蒐集しました。久原文庫は京都帝国大
学図書館(当時)に寄託されましたが、大東急再編成記念図書館(大東急記念文庫の前身)の設立に
向けて、昭和22年に東急電鉄の主宰者五島慶太が一括購入しました(慶應義塾大学図書館)。
三村清三郎は東京生れで書家。号は竹清。三重県津市で竹屋を営む。三重県史談会創設者の一
人。篆刻・漢詩・絵画・和歌・俳諧を能くした。また史学の他民俗学・考古学にも造詣が深い。
東京で集古会を開催、「集古」を発行。昭和28年没、78才(思文閣美術人名辞典)。
⑪『増訂慶長以来書賣集覧』の銭屋の項に「三代目は春蔭 寛政十二年廿二日生 実は蓍屋(能勢氏)
儀兵衛の子にして文政元年佐々木に入家す」とあり。 また蓍屋儀兵衛の項に 「儀兵衛の子 文化
元年出でゝ佐々木氏 (銭惣)を嗣ぐ」とあり。文化となっているが誤りであろう。春風は文化14
年に24歳で死去したので急遽養子として入家させたようである。
⑫天明6、7年に銭屋宗四郎名で共同出版をしているが、おそらく初代のことと思われる。上記『集
覧』に「安永9年隠居して勘四郎と改む」とあるが、出版人として隠居後は宗四郎の名を使用した
のであろう。二代目もそれを踏襲したと考えられるのである。
⑬『京都市立芸術大学美術学部研究紀要(36)』所収、松尾芳樹著「藤原貞幹の『集古図』」
(1991年)参照。集古図に関してはほとんど松尾氏の論文を参考にさせていただいた。なお加賀
文庫本は寛政2年写(表2)となっており、松尾氏論文には寛政9年云々とあるが不詳。
⑭「集古図続録 印章 先生自筆編輯 一冊」は「本朝印譜」として『国書総目録』に収録されて
いる。現在、静嘉堂文庫、東洋文庫(岩崎文庫)、宮書、京都大学、東北大学狩野文庫、神宮文
庫に蔵されているが特定できない。
⑮『日本書誌学大系 70』「国立国会図書館蔵書印譜」(平成7年、青裳堂書店)参照。
◯参考文献について:
今はインターネットの世界であり、筆者も人名、書籍などの検索に関して、各々公開されている
ホームページを覗かせていただいた。特に国立国会図書館や国文学研究資料館のデータベースは秀
逸である。そのほか諸大学をはじめ多数の図書館、文庫等のホームページにもお世話になった。こ
のような機能を安易に駆使することに多少の抵抗はあるものの、時代の趨勢と捉え、自らを納得さ
せている次第である。図書館で文献を漁るのも悪くはないと思うが、やはり瞬時に出てくる検索結
果は有り難いものである。不足する部分を実際の文献で補えば宜しいと考える。参考文献に関して
は、ほとんど本文や注に記載したのでここでは省略した。 (了)